フィリピン残留日系人とは

フィリピン残留日系人とは、明治以降、第二次世界対戦終結までの間にフィリピンに移民として渡った日本人の子(2世)で、戦争により父あるいは両親と離ればなれになり、現地に残された人々です。


当事務所は、河合弁護士を中心として、NPO法人フィリピン日系人リーガルサポートセンター(PNLSC)と提携し、彼らの国籍を取る手続(家庭裁判所への就籍申立)を行っています。


1.フィリピン残留日系人の歴史(戦前)

明治以降、日本の国家的要請として盛んに移民が行われました。なかでも、フィリピンは満州に次いで移民の数が多く、第二次大戦直前にはフィリピン在住の日本人は約3万人を超えていたといわれています。そのうち2万人は、アバカ(マニラ麻)の生産を生業として、ダバオ周辺に豊かな日本人社会をつくっていました。フィリピン移民社会の特徴として、移民した日本人男性がフィリピン人女性と正式に結婚し、その間に子どもを作り、現地社会にとけ込むことが多かったことが挙げられます。


2.第二次大戦

昭和16年、第二次大戦が勃発し、フィリピンに住む日本人の運命は一転します。日本の侵略でフィリピン全土が戦場となりました。日本人社会は戦争への協力を余儀なくされ、1世や、現地生まれの2世たちは、例外なく現地で召集され、アメリカ軍やフィリピンゲリラと戦うこととなりました。


昭和19年に入り、日本の敗色が濃くなりました。米軍のフィリピン上陸に伴い日本軍は敗走しましたが、その際、移住した民間の日本人男性や、妻であるフィリピン人女性およびその間の子どもも巻き添えになり、敗走の混乱の中、別れ別れになって、多くの子どもが孤児になりました。


敗戦後、生存した日本人1世の多くは、米国の捕虜収容所に収容され、妻子と引き離されたまま日本に強制送還されました。例えば、ダバオ周辺だけでも千名をこえる子ども達が母親と共に置き去りにされました。こうして、日本人の父親を戦争で失い、あるいは父親の強制送還で父と離ればなれになった2世(日本人とフィリピン人の混血児)が多くフィリピンに残されたのです。


3.戦後の苦難

この日本人2世(日比混血児)たちの戦後の生活は、非常に厳しいものでした。日本軍が戦時中にフィリピン人に対して行った行為の報復の対象となったのです。そのため、数千名に及ぶと言われる2世の多くは、日本人の血を引くことを隠し、その証拠を全て捨てて、隠れるようにして暮らすしかありませんでした。
そのため彼らは、満足な教育を受けることができませんでした。秘かに隠れて暮らす者が教育を受けられないのは当然です。そのため、社会的地位も低く、多くの2世がフィリピンの貧困層に属し、生活に困窮しています。


1980年代になり、日本とフィリピンの経済交流が深まるにつれて、反日感情が和らぎ、日系人達も日本人の血が流れていることを隠す必要はなくなっていきました。その頃から、日系人自らがフィリピン各地で日系人会を組織し、存在の証を求めて立ち上がるようになりました。


1990年代には、日本の民間ボランティアの協力で2世の身元確認や国籍確認、3世、4世の定住ビザ取得の道が開けました。


4.日本国籍の回復(就籍)

就籍とは、日本国籍を有するにもかかわらず、戸籍を有しない者について、家庭裁判所の許可を得た上で戸籍を編製する手続です。
就籍が認められるためには、父親が日本国籍を有する日本人であること、及びその子として出生したことを、家庭裁判所の手続の中で証明しなければなりません。しかし、厳しい反日感情の中、日本名を隠し、日本人としての証拠(父の写真や父に関する書類、その他日本と関連のある物)を捨てて生活してきたために、日系人2世と日本人の父親との関係を示すものを探し出すのは極めて困難な状況です。


この点、中国残留孤児については、日本政府が中国の公安局と協力して孤児名簿を作成し、この孤児名簿に基づいて就籍が認められました(当事務所の河合弁護士が合計1250名の就籍許可を得ています)。フィリピン残留日系人についても、同様の孤児名簿の作成が急がれるところです。


当事務所は、平成17年からNPO法人フィリピン日系人リーガルサポートセンター(PNLSC)と提携し、未だ身元が判明していない2世たちの就籍申立を行っています。平成29年には合計200名の就籍許可を達成しました。しかしながら、今なお身元のわからない残留日系人2世が800人以上います。彼らは高齢で、次々に亡くなりつつあり(これまでも就籍申立準備中に亡くなった方が数多くいます)、至急の身元調査、戸籍回復が急がれます。時間との戦いとなっており、当事務所では引き続き“最後の一人まで”国籍の回復をめざし取り組んでまいります。



2018年(平成30年)3月16日
さくら共同法律事務所
パートナー弁護士 大岩直子