中国残留孤児 国籍取得1000人達成の記録
はじめに
敗戦の混乱の中で孤児になった子ども達。その多くは身元未判明のままです。「中国残留孤児の国籍取得を支援する会」では1984年以降、彼らの国籍を取り続け、その数は1000人を突破しました。これを機に当会の運動の軌跡をたどり、あわせて中国残留孤児救済の行政の対応とボランティア運動の歴史と問題点を総括するために本誌を編集しました。多少なりとも時代の記録となり、今後の中国残留孤児問題のためにお役に立てればと願っています。
「中国残留孤児の国籍取得を支援する会」とは
1984年2月、身元未判明の中国残留孤児の国籍を取得するために設立。さくら共同法律事務所(東京都千代田区)と連携して常時数十件の国籍取得申立(就籍申立)を行い、また、孤児の自立定着促進のための会報の発行や日常的な相談活動も行っています。
ごあいさつ
「中国残留孤児の国籍取得を支援する会」会長
弁護士河合弘之
世界人権宣言13条2項は、「全て人は自国に帰る権利を有する」といい、15条は、「全て人は国籍を持つ権利を有する」と宣言している。しかし、我が国は、日本人孤児を長期間にわたって中国に置き去りにして顧みることがなかった。自国民の保護は国の最も基本的な責務だというのに。
だが、私達が中国残留孤児の国籍取得支援運動を始めたのはこのように大上段にふりかぶった理念からではない。徐明さんを初めとして、戸籍がなくて困っている目の前の人をとりあえず助けていたら、そういう人が次々と現れて、気がつくと、その数が1000人になっていたというにすぎない。しかし、後から振り返ってみると、私達の運動が先を行き、それを行政が後追いをして制度化していくという構造になっていることに気がつく。就籍自体がそうだし(厚生省は初めは静観していたが平成7年より補助金交付を開始)、科学的血液鑑定の導入、身元未判明孤児の帰国容認、永住帰国のスピードアップもそうであった。これはボランティアの活動と政府の施策の関係のひとつのあり方のように思われる。このような関係を含めて当会の活動を総括し、記録しておく必要があると考えて本誌を作った。「遥けくも来つるものかな」というのがいまの感慨だが、ここまで来られたのは関係民間ボランティア、官庁(厚生省、家庭裁判所)、(財)法律扶助協会等諸団体の皆様方のおかげだ。
長野県の安楽寺の住職の言葉に「本気ですれば大抵のことができる、本気ですれば何でもおもしろい、本気でしているとだれかが助けてくれる」というのがある。私はいま、この言葉を噛みしめている。
ところで、中国残留孤児の問題は終わっていない。彼らの老後を安定させ、生きがいあるものにしていくことは残された難しい課題だ。そのため私達は運動の重点を彼らの就職・就労の支援と年金問題に移していこうと思っている。引き続き、皆様方のご助力をお願いしたい。
座談会「国籍取得1000人までの軌跡を振り返る」
■出席者
河合弘之 「中国残留孤児の国籍取得を支援する会」会長、弁護士
千野誠治 「中国残留孤児の国籍取得を支援する会」事務局長
山村文子 「中国残留孤児の国籍取得を支援する会」会員
寺川通雄 「中国残留孤児の国籍取得を支援する会」会員
大久保真紀 朝日新聞社会部記者
池田澄江 「中国残留孤児の国籍取得を支援する会」事務局勤務
■ 司会
庵谷磐 「中国帰国者問題同友会」代表幹事
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1999年10月 さくら共同法律事務所にて
国籍がなければ日本に帰れない。ならば、日本の国籍をとろう
庵谷 「支援する会」の手で国籍を取得した残留孤児が、会設立16年目の今年、1000人に達しました。集団訪日調査も最後となり、孤児問題が新しい段階を迎えています。そこで本日は皆さんと孤児問題や「支援する会」の活動を振り返り、将来への足がかりの一助にしたいと思います。それにしても1000人という数字は、当時は考えられませんでしたね。
千野 そう、最初の頃、就籍する孤児が何人になるかって話したとき、河合さんは100名、僕の予想は200〜300名だった。
河合 こんな大事業に乗り出すという意識はなかったですよね。目の前の孤児を引っ張り上げていたら、いつのまにかここまで来たって感じですね。
千野 とにかく目の前の彼らを救わなければならなかったんだ。当時は肉親が未判明だと、日本に帰りたくても帰れない。それで帰国の手段として就籍させたけど、途中でこれは増えるなって手応えを感じたね。
庵谷 それが1000人という数字になったわけですが、ここに至るまでの根底にはいつも、孤児問題とは何か、その位置付けのあいまいさが問題だったと思います。つまり、国は孤児問題を個人問題と捉え、国の責任と認めていない。これがいろいろな問題を起こしている源ですね。
河合 そうですね。孤児を呼び戻して自国民として処遇するのを国の重大な義務と考えるか、個人的な問題として気の毒だからお手伝いすると考えるかは、非常に重要な違いがありますね。祖国に帰る権利は、世界人権宣言でも基本的な権利として宣言されています。自国民の保護は国の基本的な義務なんですよ。それなのに戦時中に関東軍は国民を置いてさっさと逃げた。戦後も国は中国と国交がないからといって長年放っておいた。これがいちばんの問題ですね。
大久保 国がちゃんと位置付けをせず、動かないから、仕方なくボランティアが補う形で動かざるを得なかったわけですね。
庵谷 ただ河合さんのお話の前段階として、国は孤児達を日本人と認めていない、だから「祖国に帰る権利」も認められないということがあるんです。ですから、日本人として認めてもらうにはまず国籍をとる必要があったわけです。
千野 そうそう。肉親が判明しないと帰れなかったから、就籍によって打開しようと思った。国籍を取れば残留婦人と同様に中国に残された日本人として帰れるからね。
庵谷 山村さんや寺川さんは、当時、国籍取得のことをどう思いましたか。
山村 当時、100人位の孤児と文通していましたが、国籍がないと帰国できないと書いてくる。何とかしなければと思っても、どうすればいいかわからない。ですから、孤児に国籍を取得させる、これはいいことを考えてくださったと思いましたね。
寺川 訪日調査の初期に、身元未判明で日本に帰国できなくなった孤児が、中国へ帰るときにバスの窓を叩いて嘆くんです。すごく悲壮感があって、我々も見送りしていて一緒に涙を流したものです。ところが、「支援する会」の尽力で未判明でも国籍取得して帰国できるようになった。孤児にとって国籍取得はいちばんの喜びだと思いますね。これで本当に日本人になれた、しかも二世も国籍がとれた、そういう思いが強いですよね。
日中国交回復後、ボランティアの力が国の扉を開いた
庵谷 孤児の国籍取得は「支援する会」によって初めて組織的に実現していったわけですが、それ以前に日中国交が正常化する前後から民間のボランティア活動があり、孤児問題が動き始めた。そのあたりのお話を山村さんにお聞きしたいと思います。
山村 日中国交が回復したのは72年9月で、その年の5月に「日中友好手をつなぐ会」の山本慈昭さんを囲んで、子どもを置いてきた方や弟妹と生き別れた方が初めて集まったんです。その後、74年に山本さんに頼まれて、新聞社に記事を書いてもらおうと孤児の手紙や写真を持って行ったんですが、各社とも中国の残留孤児って何ですが、それだけの話でしたね。ところが朝日新聞は「必ず読みますから」と受け取ってくださった。それがすぐ記事になって、孤児問題が社会の注目を集めるようになったんですね。
大久保 74年8月に始まった「生き別れた者の記録」ですね。
山村 はい。あの大きな記事を見たときは、本当にびっくりしましたものね。
庵谷 朝日新聞などマスコミが孤児問題で果たした役割は、非常に大きいですね。
山村 その通りです。それから山本慈昭さんと厚生省に行ったんです。ところが厚生省は、孤児は日本籍があるんですかっておっしゃった。しかも、軍人じゃないでしょ、この援護局は軍人とその家族のためのもので、孤児はあなた方個人の問題でしょ、と。孤児を帰国させたいというが、それは孤児の希望かとも聞かれました。それで79年に「凍土の会」の人達が中国に行って、60〜70人の孤児と会ったのです。
大久保 国交回復後にそんな動きがあって、新聞で報道をするようになった。すると、私の子どもだ、妹だと少しずつ判明する。また新聞に出る。また情報が集まる。その動きが高まって、国も知らん顔ができなくて、大使館などに集まってくる情報を新聞社に出すようになった。こうして75年に公開捜査が始まったんですね。
山村 ええ。それから朝日新聞が孤児に取材したら、父母の祖国が見たいというんですが、厚生省は日本籍のない人にお金は出せないという。それなら募金して船を借り、孤児を乗せて日本を一周しようと準備を始めたんです。ところが国で呼ぶことになって、81年に訪日調査が始まったんです。
大久保 山村さんや山本慈昭さん達の民間のボランティアの動きによって、やっと国の扉が開いた。ここまでが第一段階なんですね。
徐明事件から始まった国籍取得運動
庵谷 「支援する会」が活動を開始したのは84年、徐明事件はその前ぶれの事件でしたね。ここにいる池田さんがその徐明さんで、父親らしい人が見つかって一時帰国した。ところが血液鑑定で親子でないとわかり、強制退去の対象になったのを、会の協力で国籍取得して永住帰国できたわけですね。
池田 ええ、81年に朝日新聞の菅原幸助さんが私のことを記事に書いてくれて、それを見た人が自分の娘だと連絡してきたんです。
庵谷 で、日本に帰って家庭裁判所で戸籍を回復しようとしたら、血液鑑定が必要だという。しかし、結果はノー。親子ではなかったんですね。
千野 それなら日本人ではない、といわれて強制退去されそうになったとき、ボランティアの長老の郡司彦さんと朝日新聞の菅原幸助さんからその話を聞いて、「徐明さんを支援する会」を作ることになったんです。それから朝日新聞に彼女の記事が大きく報道されたんだ。
河合 僕はその記事を見て、千野さんに電話したんだよね。それは大変だ、肉親がわからない人ほど救済の必要があるのに、送り返すなんてとんでもないと思った。で、父母が不明でも国籍を取る方法がある、僕が必ずやるから、と申し出たんです。
千野 僕の勘では、徐明事件は孤児証明書がカギだぞ、これで何とかなると思ったんです。でも、法律的にどうすればいいか、わからなかった。そこへ河合弁護士から電話がかかってきて、これでいけると思ったんです。
庵谷 それで孤児証明書を何とかしようというので、千野さんと河合さんが中国大使館へ行ったんですね。
河合 そう、家庭裁判所がこんなのは疑わしいといったんです。それで頭に来て、2人で大使館へ行ってこれは確かかって聞いたら、一等書記官が絶対に確かだと。それを陳述書にしてもらって家庭裁判所に出して、認めてもらったというわけです。これが日本人を証明するものとして後々までずいぶん役立ちましたね。
庵谷 ところで、国籍を取得するには、裁判所での国籍確認と、現在やっている家庭裁判所での就籍がありますが、河合さんはなぜ後者を選んだのですか。
河合 国籍確認は国を相手に訴訟を起こすことで、厳格な主張と立証が求められ、孤児にとっては非常に不利なんです。一方、家庭裁判所は、愛の裁判所といわれるほど体質的に思いやりがある。だから、僕は家庭裁判所を選び、その選択は正しかったと思いますね。もし国籍確認訴訟で運動を展開していたら、それこそ100件取るのも難しかったでしょうね。
科学的な血液鑑定で親子関係を間違いなく判明させたい
庵谷 徐明事件で重要なのは、孤児証明書を認めてもらったことと、もうひとつ、科学的な血液鑑定が身元解明の決め手として認識されたことですね。千野さんはその後、血液鑑定の必要性を主張して、厚生省に訴え、ご自分でも身元判明に積極的に利用しましたね。
千野 僕が最初に血液鑑定が大切だと思ったのは、アメリカの双子の兄弟がそれぞれ父親が違うと血液鑑定でわかったという新聞記事を読んだときですよ。すごいなあと思いましたね。それから大阪医大の松本秀雄教授が血液鑑定の権威だと聞いて、いろいろ協力してもらったんです。当時、厚生省はA型、B型などがわかる簡単な血液検査をするだけだったけど、もっと厳密な鑑定をやれば親子かどうかが正確にわかる。ですから、厚生省にも血液鑑定を採用するように、庵谷さんと頼みに行ったんですよ。
庵谷 親子と判明したのに後で違っているなど、いろいろ問題が出ていたんですね。それに、中国にいる孤児と、日本で孤児を探している肉親と、両方の血液を鑑定すれば、どんどん親子が判明していくじゃないかと。しかし、費用がかかる、孤児が採血を嫌がる、という理由で実現しなかったですね。
千野 孤児問題を国の責任と考えていなかったから、国が自らやろうとしなかったんだよ。
庵谷 当時の厚生省は、基本的に当事者同士が認定すればいいという考えだったですね。
大久保 厚生省もやらざるを得なくなって、いまは血液鑑定を採用してますね。肉親関係が少しでも疑わしいときなどに鑑定しています。
千野 考えてみれば、我々が科学的な血液鑑定を訴えてから、ずいぶん時間がかかったよね。
中国にいながら国籍が取得できるように、「支援する会」が正式に発足
河合 徐明事件の場合は、日本にいる孤児のために国籍を取得したわけです。次は身元が判明しないために帰国したくても帰れない人を、中国にいるまま国籍を取得して帰国させようと、この支援する会を正式に設立したんだよね。
庵谷 ええ。松本斗機雄(中国名・趙殿有)さんが、九州の角田武尚さんに代理人になってもらって、中国にいながら国籍を取得したのがきっかけでしたね。
千野 そう、河合さんが松本斗機雄事件を、こんなのがあったと知らせてくれたんだよ。それで角田さんに電話したら、徐明事件がヒントだっていうんだよ。
庵谷 結局、徐明事件がすべての出発点なんですよ。
河合 徐明事件後に、実は、中国にいる孤児から大量に委任状をとって就籍して、帰国するハシゴにしようと考えたことがあるんです。だけど、その運動に踏み切る自信がなかった。ところが、松本さんらがやってくれたので、よし、これでやれるぞと思って、84年に「支援する会」を旗揚げしたんですよね。
庵谷 そうそう、それが会の結成の初めでしたね。
河合 でも、その頃は、厚生省や他のボランティア団体は余計なことをすると否定的でしたよ。国が一生懸命やっているのに、何をいうんだという感じで、邪魔者扱いされていた時期がありましたね。
千野 厚生省や他のボランティア団体には国籍取得の重要性がよく分からなかったんだよ。
庵谷 そう、厚生省にもうやめてくれといわれたこともありましたね。厚生省は中国側の態度を気にしていましたから、中国国内で我々が次々と就籍させるのは気になったのでしょう。
河合 過敏に反応したところはあったんでしょうね。だけど、どこかで厚生省の姿勢が変わりましたね。我々を所沢の定着促進センターに呼んで就籍の説明をしてくれというようになったときは、明らかに変わっているわけです。そして、いまは補助金を出してくれるようになりましたしね。
ボランティア達が孤児の日本定着を支援
庵谷 帰国後は、ボランティア達が孤児の生活を支援してきたわけですが、長い間、第一線で苦労されてきた山村さんや寺川さん、いかがでしたか。
山村 訪日調査前の頃は五里霧中でしたね。こうしてだめだから、ああしようとか。保証人も必要だから、引き受けもしました。ところが福祉事務所に付き添って行ったら、あなたはどれだけ生活費が援助できるか、まずそれを聞かれたんです。
大久保 まあ、ボランティアの方にですか。
山村 ええ。当時、私は退職して援助できませんから、頭を下げて全額出してもらう。ですから、あの頃は保証人になったら嫌な思いもずいぶんしましたね。
庵谷 所沢のセンターができてから変わりましたね。でも、本人の実家や出身地に帰す原籍主義が問題でした。孤児の中には地方では生活できないからとセンターに居座る者がいた。その難しいケースを寺川さんが引き受けたことがありましたね。
寺川 ええ。2、3年もセンターに籠城した孤児がいて、僕がどうにか説得して引き受けたことがあります。大変だったですよ。そんなにひどい例は珍しいですが、現在までに8家族位、身元引受人をして、いろいろやりましたね。私は中国で終戦時に小学4年生で家族がバラバラになり、孤児のように中国人に育てられた経験があって、中国語も話せるので、孤児問題はできるだけのことをしています。
大久保 こういう熱心な人がいるから身元引受人制度が成り立っているんですよ。
庵谷 この制度には2つの問題がありますね。ひとつは、法務省が孤児を日本人と認めないから入国時に身元保証人が必要になっていること、もうひとつは、厚生省が行政的に孤児の面倒を見るしくみを作らないで、身元引受人にいろいろ背負わせてしまっていることですね。
寺川 身元引受人が背負うものは多いけれど、孤児達にはやはり身近で親身になってくれる人が必要ですね。何か事件を起こしたときも、日本の国情を知った我々が一言アドバイスすると防止できる問題もある。生活習慣のちょっとしたこともアドバイスしてあげると、近隣とのトラブルが減る。結局、自分がその役目だと思ってやっているわけです。
大久保 ほんとに、難しいですよね。かわいそうと甘い顔をすると孤児は我がままになる。きちんと叱ることも必要。でも、熱い心を持って行動しないと孤児達は反発する。だから、ボランティアを見ていると、そのバランスが非常に難しいですね。
孤児本人から二世三世の問題へ
庵谷 孤児問題はいま、新たな問題に直面していますが、養父母問題もそのひとつですね。山村さんは最近、中国の養父母に会いに行かれましたが、いかがでしたか。
山村 撫順など3カ所を訪ねました。そのうち1人の養母は足が悪く、1カ月1000円程度の亡夫の年金で生活していて、暖房費も払えないんです。この養母が育てた孤児は日本に帰国し、お金も手紙も送って来ない。中国には実子もいない。その方をどう援助すればいいかと、気になってしようがないんです。
千野 日本の孤児が送金しなければ養父母が食べていかれないし、孤児が送金できない場合もある。日本政府が養父母へ15年分の補助金を一時金で出しているけど、使ったらおしまいだし、制度設定時とは貨幣価値が違ってしまっている。現実問題として、そういう養父母がいるんです。これを何とかしなきゃいけないな。
庵谷 一時金を送ったから済んだというのではなく、養父母問題はこれでいいのか、新たな課題として取り組む必要がありますね。
寺川 私も養父母問題が気になりますね。日本に来た養父母は日本語が話せず、みんな孤独です。個人的に会いにいくとすごく喜ぶんですが、行政側も手をさしのべてほしいですね。それから中国に残された家族も、生木を引き裂くような離別でなく、希望するなら一緒に日本で暮らせるような方策は立てられないかなと思いますね。
庵谷 池田さんは孤児達の今後の課題をどう考えていますか。
池田 これまでボランティアの方達が一生懸命やってくださったのですが、皆さんも70歳、80歳という年齢です。これからは孤児自身が両国のために、何かするといいなあと思いますね。孤児はいま、言葉がわからず、仕事もないので生活保護をもらい、元気なのに家でごろごろしている。公園の掃除でもいいから何か役に立つことができるといいですね。
庵谷 そう、私ももう年齢的に限界に来ていますよ。ただ、このまま、日本が背負った大きな問題である孤児問題が消えていってはならないと思いますね。ですから、僕が集めた資料などをまとめて、将来、役立つように残しておきたい。そういうことで、いま慣れないパソコンを使って一生懸命やっています。
河合 この運動における庵谷さんの役割というのは、千野さんや僕が目先のことに忙殺されている間も、記録をとり、高い視点でアドバイスしてくれたということで、非常に重要なんですね。我々にとって孤児問題の語り部、あるいは参謀といった感じですね。
庵谷 では次に、大久保さんはいかがですか。
大久保 いま国籍取得も1000人になって、残っている孤児も年々少なくなりますから、孤児一世の問題はそろそろ終息なんでしょう。で、今後はやはり二世三世の問題ですね。たとえば在留資格、就労、教育などいろいろな問題があります。残留孤児の問題というより、外国で育った日系の人達の定住問題になってきますよね。そのとき政府や行政を動かすのは、孤児やその子ども自身です。彼らが知恵を絞り、自分の運動として社会に訴えていかなければ動かないと思うんです。その後継者を皆さんが力のあるうちにどう作っていくのかが課題だなって思いますね。
千野 僕も二世問題だなと思っています。僕は20年、この運動をやってわかったのは、我々にも相当なことができるんだなってこと。国籍を取得したり、血液鑑定したり、お墓やまんしゅう地蔵を建てたり、「中国養父母感謝の碑」も最後だぞってやったらなんとかなった。で、最近つくづく思うんだけど、たとえば血液鑑定では松本秀雄教授がいた。「まんしゅう母子地蔵」では漫画家のちばてつやさん達がいた。彼らの力はすごいんだよ。それに我々の仲間だっていろいろな専門家がいて、役割分担ができる。だから、「支援する会」がここまでやってこられたんです。ボランティアにしろ何かの運動にしろ、殻に閉じこもっちゃいけませんよね。二世三世の問題や、年金問題だって、ネットワークを育てて、適材適所で協力してもらうといいと思いますね。
庵谷 最後に河合さんはいかがですか。
河合 僕は、残留孤児が1人でも残っている限り、この仕事は最後まで続けます。それが何百人であろうと最後までやりきる。将来の展望としては、年金、二世三世、文化活動などの問題は、これまでのようにみんなで力を合わせて取り組んでいきたいと思いますね。この侵略と敗戦の、文字通り、落とし子である孤児の問題を民間も協力してきちんと解決することは、やはり後世に残る重要な仕事だと思うので、これからもみんな協力していきたいですね。
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