解雇から労働契約を考える


1.はじめに

東京都労働委員会事務局で2年間勤務した後、当事務所に復帰してから6年余りが経過しましたが、これまでの業務は使用者側の立場で労使紛争に携わることが大半でした。たいした経験ではありませんが、とかく感情的になりがちな解雇に関する労使紛争について私なりに分析して感じたことを述べさせて頂きます。


2.労働契約の特徴

労働契約は、売買契約や賃貸借契約とは違って「人の役務」そのものが契約の目的となります。他に「人の役務」が目的になる契約には請負契約や委任契約がありますが、労働契約は請負契約や委任契約と異なり、比較的長期間にわたる継続的契約で、かつ組織的・社会的な契約です。時間的に見ても社会的に見ても「働くこと」は人生の中で大きな割合を占めています。終身雇用と言われた時代には「働くこと」はその人の人生そのものと言っても過言ではなかったと思いますし、生き甲斐にできる仕事に就けることほど幸せなことはないかもしれません。
しかし、それ故に、解雇を言い渡す使用者は、「ある日突然会社から解雇を言い渡されたらその従業員は何を思うか。従業員やその家族はどうなるか。」ということを真摯に考えることが必要です。


解雇予告手当や失業手当が支払われてもそれは一時的なものに過ぎず、経済的に見れば解雇された従業員は生活の糧を失い、その家族の生活は一変します。解雇が従業員やその家族に及ぼす経済的な影響は言うまでもありません。


ですが、それ以上に労使紛争を感情的なものにするのは、解雇された従業員においては、労働契約が自らの役務、すなわち自分自身を目的とする契約であるだけに、自分自身の価値というか人格そのものを否定されたという受け入れ難い気持ちや、従前所属していた組織から放逐された、裏切られたという気持ち、そして、使用者においては、「能力が無いのに解雇して何が悪いのだ。」、「こいつは会社にとって有害だ。」という上から目線の気持ちがあるからではないかと思います。


そして、使用者側がこのような態度をとるものですから、解雇された従業員も弁護士に委任したり、ときにはユニオンと呼ばれる外部の労働組合に加入して団体交渉を申し入れたり、街宣活動をしたり、そうすると増々使用者の態度が硬化して・・・・、その結果、解決まで長期間を要して、双方にとっていいことは何もなかったという悲惨な結果を招くこともあります。


3.解雇の要件-社会通念上相当であること-

労働契約法第16条は、「解雇は、客観的に合理的な理由を欠き、社会通念上相当であると認められない場合には、その権利を濫用したものとして、無効とする。」とあります。このうち、「客観的な合理的理由」とは、例えば就業規則が定める解雇事由に該当しているなどと比較的分かり易いのですが、「社会通念上相当」であるか否かの要件は極めてファジーな要件です。


それ故、よく使用者側から「今回の解雇は社会通念上相当といえますか。」とか、「そもそも社会通念上相当であるとはどういう意味ですか。」という質問を受けます。この点については、裁判例等をご覧頂ければある程度の類型化はできるのですが、私は、ここでいう社会通念上相当か否かという要件は、「使用者がどれだけ真剣にその従業員や家族のことを考えたか。」という極めてハートフルと言いますか、「思いやり」の要件であると考えています。


数年前、労働者を代理して解雇の有効性を争った労働審判で、労働者委員が、「従業員は家族と同じだろう。何でもっと従業員のことを考えてあげなかったのか。」と使用者側を長時間にわたり叱責した場面がありました。私は凍り付く使用者側の代理人を横目に、「裁判所でそんな感情的なことを言ってもなあ。」と他人事のように軽く聞き流していましたが、今となってはこの労働者委員の発言の意味が分かるような気もしています。


4.まとめ

使用者や人事担当者の中には、微細にわたる就業規則や内部規程を作成すればそれでよいと考えている方もいらっしゃいます。勿論、形式を整えることも大切なことですが、それ以上にこのような規程を実際に運用したり適用したりする場合には、「労働契約が感情を有し人格を有する人を対象とする契約である」ということを心にとどめておくことが大切であると思います。そして、このことはどんなに働き方が多様化しても変わらないのではないかと思います。


弁護士として、感情渦巻く、そして人間味のある契約類型である労働契約や労使紛争に深く携わるには、法律の知識だけではなく、人間そのものに興味を持ち、ときには下らないことで一喜一憂したり、酒を飲んで上司の愚痴を言ったりと人間味のある人生経験を積むことも大切だと考える今日この頃でした。


以上



2018年(平成30年)9月12日
さくら共同法律事務所
パートナー弁護士 荒瀨尊宏